藤田毅さんは、福山市から移住されましたが元々は茨城県日立市の出身。大学卒業後に製鉄会社に就職し川崎市から転勤で福山市に来られたのが29歳の時。「福山は海もきれいで住みやすい」と自宅も購入されます。
会社では材料開発に携わり、40代後半で倉敷へ赴任した際は出張が週4日もあったため「ものづくりをじっくりとしたい」と言う感情が芽生えたそうです。
元々20代の頃から器が好きだった藤田さん。実は会社の陶芸部に入部されたのですが、多忙のため半年で辞めざるを得なくなります。その後、48歳で早期退職をし陶芸の道を志します。
退職後の最初の3ヶ月は、神石高原町にある仙養ヶ原の工房でろくろの勉強からスタート。その後は、島根県奥出雲にある「島根デザイン専門学校」の陶芸研究所で2年間学ばれます。「当時生徒が2,3人だったため、マンツーマン指導で色々学べて独り立ちができるのも早かった」と藤田さん。
藤田毅さん (1965年生まれ)
移住時期:2016年
- 職業
- 移住前:製鉄会社で材料開発に従事⇒移住後:陶芸家として開業
- 住まい
- 時安地区で、窯や工房を備えた自宅を新築
- 家族構成
- 妻と二人暮らし
1年目で手応えを感じた藤田さんは神石高原町の「空き家バンク」に登録して移住先を探し始めます。神石高原町に絞った理由は「涼しくて、煙も気兼ねなく出せるゆったりとした町だから」と藤田さん。しかし、なかなかいい物件が見つからず、最初にろくろの勉強をした神石高原町仙養ヶ原の芸術家村の敷地を借りることができる話もありましたが踏み切れずにいました。そんな中、2年目にようやく今お住まいの土地に巡り合います。晴れた日には瀬戸大橋が望めるほど眺めも良く、窯に火を入れても隣近所に煙でご迷惑をおかけする事のない独立性のある理想の土地だったようです。
そして、陶芸研究所卒業のタイミングで藤田さんは奥さんと共に移住を決断。そこから、福山の工務店と奥さんの知り合いの設計士さんとタッグを組んで、こだわりの工房兼住宅作りを3,4年じっくり時間をかけて行い、ようやく完成を迎えます。
実は藤田さんの奥さんも「窯めぐり」が趣味という器好き。奥さんは主婦をしながらアクセサリー作家としても活動を開始し、藤田さんの陶芸家デビューを機に奥さんも作家活動を本格化することになります。
工房兼住宅とは別に離れのギャラリーもあり、玄関から左手の畳の部屋には藤田さんの陶芸作品がずらりと並びます。また、右手のフローリングスペースには奥さんのアクセサリー作品が展示されており居心地の良い空間。作品に囲まれながら、ゆったりとした時間が流れます。
更に、神石高原町に移住する理由の一つにもなった薪窯(穴窯)は自作されています。そこでの窯焚きは1年に2回行い1回で450作品、更に陶芸の先輩後輩の作品も一緒に窯に入れるのだそうです。窯焚きの手伝いは泊まり込みで大人数になるため、本当に広いスペースが必要になります。
庭造りが趣味の藤田さんは、四季を通じて花が咲くように毎年植栽を考えています。ギャラリーを訪ねて来られるお客様が楽しみにしており、やりがいを感じておられるようです。
そんな藤田さんにこれから神石高原町に移住を考えている人へのアドバイスを伺うと・・・
「住んでみたら、いいところだと思うことが多いので、ぜひチャレンジして欲しいです!」
「移住したいと思ったらなるべく早いほうがいいと思います。定年退職をしてからだと「やりたい!」というエネルギーが足りなくなります!」
と、力強いお言葉をいただきました。
自ら吟味して選んだ神石高原町ですが、ネガティブポイントについて聞いてみると・・・
「敷地の管理が大変です。広ければ広いほど草刈りに手がかかるので、正直スローライフとは無縁ですね」
「飲食店が少ないので増えてほしいですね」
「もっと道の駅などで、年間イベントや観光、食情報、面白い活動をしているグループなどを発信してほしいです」
と現実的な課題を挙げていただきました。
「移住して、本当の豊かさを実感できました!」と語る藤田さんは、神石高原町の一芸を持つ方々の集団『楽人の会』に参加するようになり、「サラリーマン時代は出張も多く会社の人としか付き合いがなかったけれど、陶芸を通して人間関係が確実に広がっています」、「今から移住する人にも、自分で魅力を発信してほしいですね」と最後に力強いアドバイスをいただきました。
サラリーマンを辞めて移住し、陶芸家という本当にやりたかったモノづくりを実現した藤田さんの覚悟と心意気を感じるインタビューとなりました。