先輩移住者の声

野上欣也さん(1957年生まれ)、泉さん(1957年生まれ)

野上欣也さん (1957年生まれ)

移住時期:2020年

職業
移住前:国立研究開発法人水産研究・教育機構を定年退職⇨移住後:油木協働支援センター職員
住まい
空き家バンクで住宅を購入
家族構成
妻と二人暮らし
野上欣也さん(1957年生まれ)、泉さん(1957年生まれ)

野上欣也さんは、大学の農学部栽培漁業学科を卒業し、「日本栽培漁業協会」を経て「国立研究開発法人 水産研究・教育機構」を定年まで勤め上げられた水産のスペシャリスト。魚類の病気を診断する専門資格「魚類防疫士」も取得し、安全な水産物の供給に努めておられました。
いい稚魚を卵から育て放流する「栽培漁業」の技術開発を行い、タイ・インドネシアでの指導や中国・台湾での講演など国際的な活躍をされます。更に当時は全国に大きな研究所が9つあり、研究所やその中にある栽培漁業センター等を北海道から石垣島まで赴任されました。
そんな全国津々浦々を回られた野上さんですが、心機一転、妻の故郷である神石高原町への移住を考え始めます。

野上さんが30代の頃から人類の爆発的な人口増加による食糧危機が予想されていました。農林水産省では食料の輸入が止まると、主食は「茶碗一杯のご飯とサツマイモ」という試算が出ています。このため、野上さんは「農地がある田舎に住みたい」と考えられ、定年を前に本格的に動き出します。

横浜に住んでいた時、野上さんのお母さんは「要介護4」で施設に入居され、全面的な介護が必要な状態でした。このため、移住される2年前に神石高原町の施設への入居申請手続きを行うと同時に、現在の住宅も決められます。そして2年後、63歳の誕生日のタイミングで移住を決断されます。移住後には、施設の条件がそろったことをきっかけに、早い段階で入居許可もおります。また、現在の住宅は、家と一緒に3箇所で10,000㎡の山も一緒に付いていたため登記手続きが大変だったそうです。
移住後の仕事は「協働支援センター」という公民館に地域支援センターの役割を足した施設のスタッフに決まり、地域に関わる仕事に従事されます。「センターで働き始めて、町の仕組みが少しずつ見えてきました!」と新たな発見と仕事への手応えも感じた野上さん。また、妻の泉さんも、役場で新型コロナウイルス感染症に関するコールセンタースタッフとして従事されます。
地域に関わる仕事を通じて感じられたのは「神石高原町は70歳から80歳の方々が本当に元気です!」と野上さん。施設に入居したお母さんも、神石高原町の環境や食べ物、同じ施設の入居者の方々に元気をもらったことで、一時「要介護3」に改善したのだそうです。やはり食と周りの人の影響は大きいのだと痛感しました。

移住後に山を手に入れた野上さんですが、肝心の畑を諦めきれず、敷地内に放置されていた庭木を切り倒し耕して、念願の畑も手に入れられます。しかし、新しい仕事もあり、山の手入れまで考えると時間が足りない状況に。更に「水産研究所時代に漁師さんたちと大酒を飲んでたものだから、60歳を過ぎて身体にガタが来てしまい昔みたいに無理が効かなくなりました」とも。確かに3箇所で10,000㎡の山の手入れがどんなに大変なのか想像もつきません。山の管理は中山間地域が共通に抱える問題のようです。

そんな野上さんに今後やりたいことを聞いたところ・・・
「無理せず、趣味と実益を両立して、まずはダメになってる松茸山の再生をしたいですね」
「移住前からやっていた渓流釣りや山登りも満喫したいです」
「自分で作った野菜が美味いので、子どもや将来できるであろう孫たちに送って味わって欲しいです」
とまだまだ、活力溢れる様子です。

そんな仕事も畑もバリバリこなす野上さんに、これから神石高原町に移住を考えている人達へのアドバイスをお聞きしました。
「子育て世帯へのサポート体制が充実しているので、安心して暮らせる環境があるのは大きいですね」
「移住した若い人達の活躍を見ていると自分たちもチャレンジするしかない!と思わせてくれます。成功事例をどんどん作っていって欲しいです!」
定年退職後もチャレンジし続ける野上さんらしい言葉でした。

「年齢は幾つであろうと、チャレンジ精神があれば活躍できる場が神石高原町にはある」と確信できたインタビューとなりました。